終活物語

家族間で「違う宗教」どうやってお墓を探す?

後藤夫婦は、娘の智子さんの余命宣告を受け、悲しみに打ちひしがれていた。だがそんな二人に、更なる“お墓問題”が降りかかってくる。なぜならば、夫婦二人の宗教と、智子さんの宗教が異なっていたからだ。一体どうすれば良いのだろうか?

 

後藤義直さん(56歳)と妻の和美さん(55歳)は、娘である智子さん(30歳)の余命宣告を受けた。

まだ若い娘の病気に言葉にならぬショックを受ける二人。しかし悲しみに打ちひしがれる二人に更なる試練が訪れる。

 

—2年前—

ひとり娘で独身の智子が病気を宣告されたのは、銀杏の葉が黄金色に変わり、静かに冬の気配を感じ始めた3年前のことだった。

闘病生活は、3年を迎える。

治ると信じ、私も旦那も必死に看病を続け、娘と一緒に病気と闘ってきた。しかし非情なもので数か月前に医師より余命宣告され、現在は自宅で療養中である。

受け入れがたい現実だけれども最近は食欲が落ち、足のむくみもひどく、先は長くないと感じている。

私はどうしてもまだ受け入れられない。だってこの前まで赤ん坊だと思っていた智子なのに、いつの間にか綺麗な娘へと成長しており、大学も出て社会人になり、私はこのまま幸せな結婚をして素敵な一生を送ってくれると信じて疑っていなかったから。

しかしそんな娘の終末期をまだ受け入れられない私に対し、夫は冷静だ。いや、むしろ現実を見たくなくて、でもどうしようもなくて悲しみに耐えているのかもしれない。

そんな夫が智子が寝たのを確認してから、深夜のダイニングテーブルでお茶を飲みながら呟いた。

「万が一の時、葬儀はどうしようか」

「やめてよ、そんな縁起でもない話」

私は少し怒りながら答える。まだ生きている智子に対し、そんな心配をするなんて信じられなかった。“これだから父親は・・・”。そう言いかけたが、夫の表情を見ると何も言えなくなってしまった。

夫も、今にも泣き出しそうだったからだ。

「受け入れたくはないし、希望も捨てていない。けれども万が一の時に、智子の好きなように見送ってやりたいし、安らかに、そして幸せに眠って欲しいんだよ」

二人とも、言葉にならぬ思いで胸が潰されそうになる。

「後藤家は川崎市の寺院内に先祖代々のお墓があるだろ?自分より先に娘が入ることに抵抗しかないけれど、万が一の際にはこの寺院のお墓に入って自分たちが入るまで待っていてほしいと僕は思っている」

夫の言葉に頷きかけるが、ふと引っかかりを覚える。智子は大学時代にキリスト教の洗礼を受けたため、本人だけ宗教が違うことになっている。(中高大と一貫校でキリスト教の学校だった影響が大きかったようだ)。

「でも待って。智子はキリスト教だから、私たちと一緒のお墓には入れないんじゃない・・・?」

「そんないくらキリスト教信者とはいえ、後藤家のお墓に入るとしたら、やはり菩提寺の寺院に葬儀をお願いしたほうが良いんじゃないか?」

「そうなのかしらね」

そう答えながらも、娘が通っている教会のことも気になる。入院中は教会の牧師や信者の方がお見舞いに来てくれたし、献金をしていたことも私は知っている。そして以前、智子が “私の意識がなくなったら、牧師を読んでほしい”と覚悟を決めたように呟いていたことを思い出す。

その言葉を聞いて以来、智子の葬儀はキリスト教で行うべきなのかも、と思っている。

しかしそうなると、お墓はどうしたら良いだろうか。娘だけ別のお墓という選択肢は私たち夫婦の間にはない。

—娘と一緒のお墓に入りたい。

そんな当たり前のようで、最後の願いを叶えるというのは難しいのだろうか。

 

親子間で違う宗教。お墓はどうすれば良いのか?

「一旦、菩提寺に相談してみようか」

そう提案する夫に対し、私は慌てて止めに入る。

「面倒なことになったら厄介だから、余計なことは言わないで“葬儀はしなかった。納骨させてください”、ではダメかしら?」

最近では、火葬だけ済ます葬儀の形もあると聞く。

だからそう言って納骨させてもらうのも良いかもしれない。しかし夫は、娘にウソをついているようで心苦しく、きちんと説明したいという。

「菩提寺にはきちんと話をしよう。それでダメならダメで別の方法を考えたら良いじゃないか」

しかしそんな話をしていた数週間後、智子は亡くなってしまった。泣いても泣いても涙は止まらず、文字通り涙が枯れるまで、最後の一滴まで涙を出し尽くしてもまだ足りないほど、私たちは悲しみ淵に突き落とされた。覚悟はしていたものの、誰か最愛の人を亡くすこと、ましてやそれが自分の娘だなんて想像もしていなかった。

最後は意識が遠のいていく中で、牧師による祈りがあり臨終を迎えた。葬儀は教会で多くの信者が集まり、厳粛に行われた。

 

—お彼岸—

その年のお彼岸で、私たち夫婦は先祖のお墓参りに行くために菩提寺に訪れ、住職に娘の訃報を伝えた。

「キリスト教の洗礼を受けていたため、こちらへの報告が遅れてしまってすみません。何よりも、宗教は違うのですが自分たちの家族として、先祖代々のお墓に納骨したくて…」

お詫びとともに、私たちの希望を住職に伝えてみる。すると、意外にも可能だという。

「檀家として、今後も変わらぬお付き合いを継続していただけるのであれば、智子さんの納骨も可能ですよ」

しかし喜んだのも束の間、住職からの質問に対し、返答に困ってしまった。

「しかし可能とはいえ、現実問題として法要はどうされますか?」

智子本人はキリスト教信者となったが、私たちとしては年忌法要をして、自分たちの気持ちの整理をしたいと思っている。

「年忌法要を、したいと思います」

結局戒名を授かり、年忌法要をお願いすることにした。

—現在—

まもなく智子が亡くなって、1年になる。また街に紅葉の季節がやって来た。冬の訪れと共に私たちの胸はギュッとなる。それはこれからも、変わらないだろう。雲ひとつない澄んだ秋晴れの空を仰ぎながら、私は夫と手を繋いで歩く。

戒名を授かったので一周忌のタイミングで納骨をしようと考えている。

智子が所属していた教会にもその旨を伝えた。散々悩みはしたが、本人の信仰を尊重しつつ、自分たちの思いを実現できるベストな方法だと信じている。

文:三浦 マキ / 監修:吉川 美津子

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